匠の技にかける。
よき数奇屋造りを達成するには、施主と設計者と数奇屋師との、心意気が合わなくてはならない。数奇屋造りという技が円熟し、技術的にも最高潮に達したのは、明治から大正、昭和戦前にかけてである。
そのころは、ほんとうに数奇屋造りにかけての玄人らしい施主・茶人・棟梁や職人がいたのである。いわゆる数奇屋道楽にもいろいろのタイプがあり、数奇屋造りの場合の施工は、やはり茶人であり数奇者であったと思う。
しかし、とくに数奇屋道楽を好む数奇者には、茶の湯全般に見識をもつ人が多かった。
点前や道具の蒐集の域をのりこえ、茶の湯をたんなる趣味以上に、生活の支柱としているような人が多かった。
したがって、茶匠にとっても、棟梁や職人にとっても、手ごたえのある相手であった。
茶の湯だけではなく、彼らはまた建築や庭についても造詣を深めていたのである。
数奇屋造り茶室を愛した茶人たち。
とくに数奇屋造りの経験の豊かな人は、材料のことから大工仕事のことまでよく知っていて、棟梁気取りで職人へ指図をするほどの人もいた。
経験の乏しい不熱心な大工では、とうてい歯の立たない施主でもあった。
毎日槌の音を耳にしないでは淋しくていられない類の人であったのである。
なかにはわざわざ弁当をこしらえて、棟梁や職人と一緒に仕事場で暮らす人もいた。
それは数奇屋造りを楽しむ態度であると同時に、数奇屋造りを勉強しようという気構えの現われでもあった。「障子の張り方も知らないで、住宅の設計ができるのですか」と、皮肉られ、それから本格的に和風建築の歴史的研究に取り組むようになった、棟梁や職人が多く輩出した時代背景がある。
このような施主のあり方が、数奇屋造りの水準を高め、その伝統を育てる上に大いなる力のあったことを、知る必要があると思う。
数奇屋造りをする人は、茶人であり、侘びの理念を解する人が多い。
豪華な成金趣味の数奇者とは全く性格が異なっているから、財力を誇示するようなことはしない。そうした施主の教養が、精神性の深い数奇屋造りの発達に適していたのである。
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数奇屋造:大正ロマンの浴室〔五右衛門風呂・船底天井〕&厠 |
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